シンプルであること
- 林好子
- 4月5日
- 読了時間: 3分
今日は「シンプル」がテーマです。
先日、初めて能の舞台を観て、「シンプルさ」について改めて考えてみました。
アート、文章、モノ、コト、動き、なんであれ、いつの頃からか、シンプルなものに惹かれる自分がいます。
なぜシンプルな曲線、色合い、モノ、コトに美しさを感じるのかわかりませんが、理屈を超えて、直感的に美しさを感じるシンプルなものに出会うと、満たされた気分になります。
個人的な意見ですが、シンプルさというのは、ただ質素、飾り気がないものとは違う気がします。
また、最初からシンプルに行き着いたわけでもないように思うのです。
時に余分なものを求め、複雑さを経験し、格闘し、そこから抜け出すことを求めはじめる。そして、余分なことを手放そうとするも、そう簡単に手放せない。あるいは、手放すことを求めつつも、どこかで余分なことに期待を寄せる自分や、それを欲する自分と葛藤しながら、少しずつ余分を手放して、シンプルに向かっていくのではないかと思うのです。
つまり、シンプルとは、ただ単純でもなければ、簡単でもない。むしろその逆で、複雑であり難しいものの先に生まれたものなのだと思うのです。だからこそ、受け手は、理屈のわからない美しさを感じるのではないでしょうか。
余分なものには、わかりやすさがある気がします。装飾が加わることで、より伝えたいことを詰め込める。それによって、不足感が薄れ、わかりやすさが生まれる(場合もある)。あるいは、装飾によって、自分を誇示したり、他人から承認されることを期待しているかもしれません。ただ、そういったわかりやすさや承認欲求ですら、本質からズレた余分なものなのでしょう。
昔、アレクサンダーテクニークの師匠ブルース・ファートマンに、シンプルさについて尋ねたことがあります。彼はこんな風に言いました。
シンプルはいいね。ただし、too muchも良くないが、too simpleもいけない。どちらであっても過ぎるとよくない、と。
確かに。削いでいって事足りなくなってはいけない。かといって、余分なものは不要。つまり、過不足がない状態に限りなく近いものが良い。
ただ、理屈でわかっていても、その絶妙なバランスを体現するのは難しい。日常では、肉体的、精神的、行動的に余分や不足がいっぱいある。
言葉。
余分な言葉は本質を薄めてしまう。でも言葉足らずすぎて誤解を生むこともある。(私のブログも過不足を感じる方がおられるでしょうが、お許しを💦)
肉体も然り。
適度な緊張は、体を守るためにも必要だが、過度な緊張は、ブレーキが効きすぎた燃費の悪い体になってしまう。
日常や仕事のリスク管理も同じ。
事前の備えはリスクを減らしてくれるが、過度な心配や備えにエネルギーを取られ、日々の日常や仕事がおろそかになっては意味がない。取り越し苦労は、まさに余分の結果だと言えます。
アレクサンダーテクニーク(以下AT)は、「余分なことをやめる」学びでもある。私がATに興味を持ち、シンプルなモノ・コトに魅力を感じるのは、余分がいっぱいで、複雑な自分の窮屈さを嫌と言うほど経験したからでしょう。
先日、能のシンプルさの中にある美しさに触れ、余分をまとおうとする自分に改めて気づきます。
これからも、自分の余分と格闘しながら、一歩ずつシンプルに近づいていきたいと思います。
みなさんも、自分の中にある余分を一つずつ手放してみてはいかがでしょうか。
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