言葉の厄介さ
- 林好子
- 7月21日
- 読了時間: 4分
今日は動きを学ぶ上で知っておきたい「言葉の厄介さ」についてのお話です。
私たち人間は、言葉を手にしたことで知恵や経験を他者と共有し、世代を越えて伝えていくことができるようになりました。
いまある技術や芸能、それらの多くは「言葉」があってこそ受け継がれてきたものです。 言葉がなければ、ここまで積み上げることはできなかったかもしれません。
しかし一方で、言葉はとても厄介な存在でもあります。
特に「動き」を学ぶ場面では、言葉の受け取り方ひとつで、体験が大きく変わってしまうことがあります。
ですから、指導者も学ぶ側も、 「言葉の扱い方」には注意を払う必要があると感じています。
今日はその点について、少し掘り下げてみたいと思います。
具体的なテクニックやハウツーよりも大切なことかもしれませんので、ぜひ最後までお読みください。
私たちは「共通の言葉」を使っています。そして多くの言葉は辞書で意味を調べることができます。それゆえ、私たちの多くは「共通の言語=共通の認識」だと考えがちです。
でも、実際にはそうとは限りません。
たとえば、「脱力」という言葉を聞いたとき、 人によって思い浮かべる身体の状態は違います。
・だらんとして自分が重くなる状態を想像する人
・軽やかでしなやかな動きを思い描く人
・軽やかさの中に力強さを感じる身体を想像する人
…というふうに、まったく異なるイメージだったりします。
さらに、「良い」「悪い」といった価値判断も人によって異なります。
つまり、
「共通の言語」=「共通の認識」
ではないのです。
これはとても大切なポイントです。
認識のズレは、体験のズレに繋がる
多くの人は、「偉い先生がこう言っていたから正しい」 「指導者がこう教えたから間違っていない」と、自分の解釈に疑問を持たないことがあります。
でも、同じ言葉でも捉え方が違えば、結果も違ってきます。
ですから、一度立ち止まり、「先生が言ったことの本当の意図は何だろう?」「自分の理解はズレていないだろうか?」と、言葉そのものではなくその奥にある「意図」や「意味合い」に目を向けると、 新しい気づきが得られるかもしれません。
経験が言葉を育てる
古典芸能や武道などでは、先人たちが経験から得た教えが言葉として残されています。
私たちはその逆をたどり、 「言葉」から「経験」へと向かおうとしています。
だからこそ、まだ経験のない段階で言葉だけを信じても、本質にはなかなか届きません。
でも、この「当然のこと」は、意外と忘れられがちな気がしています。
この当然のことに気づき、自身の経験と真摯に向き合っていくと「●●という表現は、 実は○○という意味だったのかもしれない」と気づくことがあるかもしれません。
あるいは、「●●という言葉ではうまくいかなかったけれど、○○に言い換えたらしっくりきた」ということもあるかもしれません。
そうやって、「言葉」に振り回されるのではなく、自分の「経験」から言葉を再構築できるようになることの方が重要だと個人的には思っています。
そして、自分の中で何度でも言葉の意味や解釈を、経験と共に塗り替えていくことができたらいいのではないでしょうか。
ちなみに日常のコミュニケーションでも、言葉の誤解はつきものです。
表面的な言葉に振り回されず、その「奥にあるもの」に目を向けられたら、誤解や対立も少しは減るかもしれませんね。
ということで、今日は「言葉の厄介さ」についてお伝えしました。
…とはいえ、 これも言葉でしかありません…💦
どうか、ご自身の経験を通して、 じぶんなりの理解を深めていっていただけると良いかと思っております。
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