Beingの探求
- 林好子
- 6月26日
- 読了時間: 3分
今日のブログは「在り方(Being)の探求」について。
私の師匠のひとり、ブルース・ファートマンは、アレクサンダー・テクニークについて、こんなふうに言いました。
“The Alexander Technique is not about how we do what we do. It’s about how we are being when we do what we do.”
「アレクサンダー・テクニークとは、私たちが何かをするとき、どのようにするか(動くか)ではなく、それをしているときに自分がどう“在る”かについての学びである。」
つまり、動き方のノウハウではなく、そのときの「存在の質(Being)」についての学び、ということです。
この考え方は、私が学んでいる合氣道にも通じます。
合氣道というと、技や基本姿勢などの動きをお稽古するものと思われるかもしれません。でも実は、それと同時に「気が出ている」「心が静まっている」といった“在り方”(Being)の探求でもあります。
ただ、白帯の頃は、動くこと(技をすること)に精一杯で、心の状態・存在の質なんて気にしていられません。でも、少しずつ技に慣れていくと、自分の心の状態や在り方に意識が向くようになります。すると、それが動きや技の質に影響していることを実感します。加えて、自身の在り方(存在の質)ながら自分の思い通りにはならないことを痛感します。
私は人の動きや表現を見るのが好きですが、ダンスや音楽、武道、どんな分野であれ、単に技術的に上手なだけではあまり心が動きません。
でも、動きの中に、その人らしい“在り方(Being)”が感じられると、とても感動します。そこに、その人ならの美しさや深さを感じるからではないかと思います。
それは、特別なパフォーマンスだけでなく、日常の生活においても同じです。
他者の素晴らしいBeingに触れていく中、こんな風に動けるようになりたいという欲求以上に、こんな風な自分でありたい(こんなBeingの質で合氣道がしたい、人と接したいなど)という方が強くなっている気がします。
ただ、ここで忘れてはいけないのは、「在り方(Being)」は身体に支えられている、ということです。
在り方(Beingの質)=「心の持ちよう」と思われるかもしれませんが、私はそうとは思っていません。心そのものの使い方(状態)は大切ですし、それを含んでいますが、心身一如である私たちは、身体性を抜きにして“在り方”を深めることは難しいと感じています。
ダンス、武道、音楽、どんな分野でも、まずは基本の型など動きとして練習を始め、思い通りに身体が動くことを目指します。先に述べたように、この時点で、Beingの質に意識は及びません。でも少しずつ上達し思い通りに動けるようになり余裕が生まれた時に、Beingを探求することができます。
と同時に、それまでのお稽古で培った動きの質の向上や身体の整いがBeingの質を支えている、そんな風に感じています。
ですから、いわゆる身体の使い方を学ぶこともBeingの学びのために必要であり、何事もプロセスが大切ということです。
ということで、身体の使い方を探求しつつ、Beingの質もお稽古していくといいかもです。
そして、Beingのお稽古の成果が、いざという時、ここぞという時、(例えば、大切な人が亡くなった時、突如アクシデントがやってきた時、大切な人が苦しんでいる時、大勢の前でパフォーマンスする時、大事な決断を迫られた時、特別で楽しい瞬間を過ごす時などに)発揮されるといいなと思います。

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