「導く」と「コントロール」の違い
- 林好子
- 9月23日
- 読了時間: 3分
今日は、「導くこととコントロールの違い」についてお話ししたいと思います。
私が学んでいるアレクサンダーテクニークと合氣道には、共通点があります。その一つが、相手を「導く」です。
そして、「導く」とは、相手を「コントロールする」とは異なります。
「導く」と「コントロール」の違い
私なりの解釈ですが、「導く」ためには、自分が変わる(自分を整える)ことから始める必要があります。これに対し、コントロールは、「自分をさておき、相手だけを変えようとする(どうにかしようとする)」という態度です。
「導く」は相手の立場に立つ、「コントロール」は相手の立場に立たない、そんな違いとも表現できますが、相手の立場に立とうとするかどうかも自分のあり方の一つであり、自分が変わることから始めると言えます。
そして、受け手の経験は、導かれた時とコントロールされた時とで、全く異なります。
「導く」ことの難しさ
相手を導くために自身の整いが必要ですが、これは言葉にするほど簡単ではありません。
”自分が変わったところで、本当に相手が変わるのか(導けるのか)…”、そんな不安が付きまといます。また、相手を目の前にすると、相手を変えたい(合氣道では、投げたい)という欲が生まれてきます。
そして、気づけば、自分はさておき、相手をどうにかしようという態度に変わってしまいます。
ですから、そういった自分の態度を抑制し、自分と向き合っていくこと自体がお稽古になります。
合氣道での「導かれる経験」
先日、合氣道のお稽古で、まさに「導かれる経験」をしました。
その日は、合氣道の師(館長)が、この世を旅立たれた日でした。
訃報を受け、私の心は悲しみと動揺で波立ち、涙が止まらなくなりましたが、「道場では心を静め、気を出す」と心に決めて、お稽古に行くことにしました。
ただ、道場入ってからも、心の波はおさまらず、涙を堪えるのが精一杯でした。
ところが、準備体操で、指導員の先生の気に満ち溢れた号令が道場に響いた瞬間、私の心の波がスーッと静まり、涙がピタッと止まったのです。
そして、気づけば、気を出し、技の探求に夢中になり、時に笑い声をあげている自分がいました。悲しさすらどこかにいってしまったかのようでした。
「導く人」のあり方
そのクラスを担当しておられた先生は、私たちに「気を出すこと」を強要するでもなく、言葉で説得するでもなく、ただ、自らが「気を出す」ことを全うする、その在り方を通して、導いて下さいました。
あまりにも自然に導かれたので、気づけば自分が変わっていたという感じでした。
私もいつかこんな風に相手を導けるようになりたいと心から思いました。
日常生活に活かす
相手を導くために自分の整い(自分を変えること)から始める。これは合氣道やアレクサンダーテクニークに限らず、日常の人間関係にも通じることだと思います。
私自身、日常の様々な場面で相手をコントロールしたい自分がいることに気づきますが、そこに調和は生まれません。
双方ともに気持ちよく望む方向に向かえるよう自分のあり方から変えていく、自分の整いを持って相手を導く、そんなことを目指していきたいと思います。
ぜひ皆さんも!
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